回答
バブル世代よりずっと下ですがそんな感じでした。私はABロード世代ですね。今では信じられないくらい安い航空券やツアーがあった時代です。後航空券が今のペラペラのじゃなくて分厚いやつに時代でした。怪しい旅行会社もたくさんありました(笑)
そもそもネット環境がありませんでしたから旅行代理店経由がほとんどでしたね。パンフレットを比較したり店頭で相談したりとアナログでした。ホテルも今のように複数の予約サイトで比較しながらということもありませんでしたから、自分でカスタマイズする醍醐味はありませんでしたね。なにより現地で情報収集する手段も極めて少なかったですので、今のほうが海外旅行
に奥行きがあります。
>>1エイビーロードってもともとは「月刊の海外旅行情報誌」だったんですね!!
>>2確かにインターネットがなかったら、今みたいに簡単にホテルは取れない。。
いまでこそ日本人が行きたいと思う国ならだいたいビザなしで行くことができるので、マイナーな国ならいちおうビザが必要ないことを確認してから飛行機を取ります
でも昔はそうでなかった???
スポンサードリンク
>>0 親御さんと同世代だと思います。
私達より上の世代は、旅行と言えばJTB(昔は交通公社と言ってました)、日本旅行、近畿日本ツーリストなどの旅行会社に頼んでLOOK、JALPAKなどのパッケージツアーで行くのが常識でした。個人手配の旅行を扱う旅行会社のはしりが今のHISで、マップツアーとかリクルートヤングツアーなどの競合会社も私の頃は出てきました。
そういった旅行会社に電話したり窓口へ行ったりして航空券を手配し、ホテルは現地へ行って行き当たりばったりに探す、という旅行を20代の頃はしていました。やがてJHC、アップルといったホテルクーポンの会社が出てきて、旅行会社の窓口でホテル1泊のクーポン、といった形でツアーで使わないようなYMCAとか安めのホテルも取れるようになりました。エイビーロードを毎月買っていたのもその頃です。
インターネットの前のパソコン通信という文字だけの通信で、航空券やホテルがオンラインで取れるようになった時(1990年代初頭)は本当に便利になったと思いました。98年ぐらいからネットでの手配ができるようになり、だんだん今と同じになってきたと思います。
>>5 80年代はアメリカや韓国、台湾もビザが必要でしたし、中国などは旅行会社経由で手配する招聘状がなければビザも取れませんでした。中国ビザは香港では招聘状なしで取れるので、香港往復の航空券を買って、香港でビザを取って列車で広州へ、というパターンで旅行をする人が多かったです。どの国はビザが必要か、という情報は地球の歩き方やエイビーロード、旅行人などで収集することが多かったですね。
>>6パソコン通信、ホテルクーポン、、、知らない言葉ばかりです笑
昔の旅行というと日本で使える携帯電話が海外では使えないみたいに「日本で使える〇〇が海外では使えない」から今と違っていたと思っていたんですけど、そもそもインターネットがないとか今とは次元の違う違いがあったみたいです。そもそも航空券をとるということも今より大変そうです。
それは1ドルが360円時代、はじめての海外出張は香港でした。社員総出で羽田空港の屋上で万歳・頑張れ!の見送りをしてもらいました。新幹線開通の翌年でした。人生かってない緊張をしたのをおぼえています。Ticketが幾らだったのかはわすれました。
父が初めて行った国がアメリカ。1973年のことで、(勿論個人のお金ではなく)会社のお金での出張でした。
駅には同じ部署の人間が集まり、胴上げをして送り出すのが恒例だったようです。日本で買ったかアメリカで買ったのか分かりませんが(多分アメリカ)、使っていた大きなサムソナイトのスーツケースにはキャスターが付いて無かったを覚えています。今じゃあの大きさでキャスター無しなんてあり得ないと思いますが、当時はそう言うのが商品として有ったようですね。
小生は1969年にアメリカに、横浜から船で行きました。飛行機代は高かったです。
一年間バックパッカーまがいの世界旅行を楽しみました。
査証(ビザ)は毎回今とどまっている国で次に行く国の大使館でもらいながらの旅でした。
中近東・アジアはバスの乗り継ぎで国から国へと移動していました。
日本語のガイドブックも無しで良く旅行したものだと思います。
その頃ヒッピー時代でした。アメリカではウッドストックフェスティバルも実際経験できました。
ベルリンの壁を越えて東ベルリンを訪問したときの驚きは今でも忘れません。
カイバル峠を超えてアフガニスタンにいまは危険な国ですがその当時王政でした。ヒッピーもいました。
インドシナ半島はベトナム戦争で危険な状態でした。
今の旅行はインターネットのおかげで本当に楽になりましたね、
でも50年前の情報なしの旅行は『トラベルはトラブル』の毎日で楽しかったも云えますよ。
スポンサードリンク
初めての海外旅行は1977年で香港に知り合いがいて(もちろん日本人です)、現地の情報は外国人船員から収集して行きました。今と違って、外貨交換にパスポートが必要でしたが、まだイギリスの植民地の時代で安い物価や無税のため高級な時計やライターの安さに驚いたことを覚えています。安いツアーで、ホテルが★★だったので別途手配しました。
初めての海外旅行で一人旅したのは1983年でした。当時はぼちぼち団体旅行はいやだという層が出てきて、飛行機の空席を格安で売るチケット専門の旅行代理店が出てきたところでした。そういうところで航空券を購入して(日本ーヨーロッパ最安値のパキスタン航空で半年オープンくらいで当時20万弱払った記憶が・・)あとは行き当たりばったりでした。地球の歩き方のような詳しいガイドブックすらなく、各国の有名観光地と一流ホテルが載ったような本しかありませんでした。現地の移動は全部、現地でチケット購入、ホテルもいきなり行って空きがあるか尋ねていました。ビザが必要なところは現地の大使館で取りました。ほんとに手探りでしたね~。その分、今よりも冒険的で楽しかったかもです。親に心配されて、時々国際電話してこいと言われて、高くてそんなことはしていられないと断りました。3分くらいの電話が5千円くらいかかり、ほとんどがオペレータを通さないといけなくて面倒でした。今はなんでも楽になったのに、若い人が海外に興味がない人が多いということで残念です。海外を見ると見ないでは、視野の広がり方が全然違うと思います。
私はバブル世代ですが、初海外旅行は大学生の時にアメリカでした。旅行代理店経由でその当時マレーシア航空ロス往復7.2万円でした。その当時位から所謂格安航空券値下がりが顕著で良くユナイテッド航空でアメリカ経由ヨーロッパでマイル稼いで、東南アジア無料航空券に替えてました。後、時代的にソ連が崩壊して、軒並み東欧がVISA無しで行きやすくなって、良く行ってました。
反対に今の旅行のことを書いてみます。旅なれた娘たちと最近、20年ぶりに海外(台湾)へ行ったのですが彼女たちの旅行は驚くことがいっぱいでした。
まず航空券を買うのもパソコンで日にちと行き先を入れるだけでたくさんの便が見つかって下手に国内のバスや電車を予約するより簡単だと驚きました。ホテルもインターネットで探して、住所をパソコンの地図で確認して外観を見て口コミをみてと、、私達が旅行をしていたときは国内でもホテルに電話をして空室を確認していたのに今の海外旅行の方が簡単なようです。
到着してからも日本のクレジットカードで現地のATMでお金をおろせるし、スマホも普通に使えるしまるで国内旅行の感覚で旅行しています。だから現地の言葉もスマホの翻訳で見せてるし、地図すら持たずにスマホで地図を映して街を歩いています。もうガイドブックも指差し会話も要らなくない時代なのかと、感心の連続でした。
スポンサードリンク
僕が海外に行き始めたときにはインターネットがありモデムカードで情報収集できる時代でした。
速度は今の容量オーバーの規制値128kbpsが世界最高速度の時代です。
レンタカーでモーテルに泊まりあちこち行ったものです。
ジャンボに乗るのも楽しみでした。
いつかはあの2階席に乗りたいと思ったものです。
今では乗りたいと思ってもジャンボは退役しなかなか乗れる機会は少なくなりました。
先日、アシアナの仁川→桃園でジャンボの2階席が取れ昔を思い出しておりました。
前さんと同じ世代だと思います。
私もこれに乗りました。
ステータス持ちなので1階をアサインされましたが2階席に変更を申し出たのでわけのわからん日本人と思われたかもしれません。
確かに1階はフルフラットの最新座席で2階はライフラットの旧型ですがジャンボの2階はたまらんです。
今でこそスマホの地図でことが足りるから地図を持ち歩かなくなったんだけど、昔は国内海外問わず紙の地図必須でした。
30年前はインターネットがなくてabroadみて電話したりHIS行ってチケット買ってました。
20年前にはネットみてメールで海外発券してEMSで受取してましたね。振込や受取の手間はあったけど値段的には今とあまり変わらないかも。e-ticket化されて受取が楽になったのは感じます。
変わったと思うのはホテルですね。10年前でもホテルはわりと行って空き部屋聞いて泊まる感じでやってましたが、今は予約サイトで比べて口コミ見て予約なのでかなり便利になった感じがします。
昔は飛行機の航続距離が短いので、ヨーロッパへは東南アジアや中東経由の南回りや、アラスカ経由の北極ルートなど、途中で燃料を補給しながらのフライトで時間がかかりましたよ。
スポンサードリンク
初めて海外に行ったのは1985年前後、大学の夏休みでした。今みたいにインターネットもないし情報もないから、海外に詳しい人(当時は大学の先生や旅行好きのバーのマスター)か旅行会社に頼ってました。チケットも今みたいにネットで検索できないので、旅行会社に通っていた思い出あります。
ここ10年くらいでも違いは大きいです。10年前に大学生で海外旅行にも今と変わらずよく行っていますが、2013年にピーチが運航開始されてLCCが本格化するまではインターネットで時間を割いて格安航空券を探すかH.○.Sなど代理店で格安航空券を手配するのが普通でした。
今でもそうですが、旅行代理店は航空券をまとまった数確保しているので、その売り残しで安くなっているものをネットで探して直前予約してマイルを貯めるのが一番安かったですね。友人との旅行で事前に予約したいときはトランジットの多い便や海外サイトから予約したりしてましたが、探すのが面倒になってからは代理店の航空券やらパックやらを使ってました。
ここ10年で大きく変わったことと言え韓国や近場のアジア圏に行く人がやたらと増えたことでしょうか。安く行こうと思えばネットで調べる時間や代理店へ連絡する手間があったので、どうせなら同じくらいの価格で時期をずらしたりして別の国に行く人の方が多かったイメージです。
韓国はどれだけ安くても1泊2日でパックなら4万程度、航空券だけで往復3万前後。同じ値段でオフシーズンのグアムに事前予約で行けるし、格安の直前予約ならあと2万出してシンガポールまで往復で行けます。
バブル時代から言えば変わったことはもちろん多いですが、ここ10年でも海外旅行は大きく変わっています。今の30代で学生の頃から海外旅行によく行く人に聞いても面白いと思いますよ。
今はクレカやスマホ使えるから国内も国外もたいして変わらんけど、昔は国内と国外で全然違った。ネットもないから現地のこと想像もできんかった。
そういや最近は韓国とかいく人多いけど、一昔前は近くても遅れた国で軍事政権で怖くていく人そんなにおらんかったな。
HISさんが創世紀の頃(新宿駅西口の雑居ビル内に事務所が有った)から利用していましたね。
それと、台湾行きの回数が多かったんで、台北の旅行会社で台湾発券のキャセイ航空の正規割引航空券(発券日から1年間有効。日本国内発券物の約50%の金額。利用時期の制限無しなんで、連休時期には大変重宝しました)も利用しました。円高・現地物価が格安だったんで、円の価値・大の時代でした。
現在はLCC専門と言っていいくらいに利用しています。台湾に関しては、円安・現地経済成長による物価上昇で、旨味が無くなり、訪問回数は激減。タイのチェンマイでの、日本の冬季(1~3月)の長期滞在へ変更済み。
1990年代初めは海外から日本に電話するのも、郵便局から電話すると安い、とか現地でも口コミが重宝されました。普通にテレフォンカードを購入して公衆電話から電話しました。
度数がものすごい勢いで減っていくのがすごかったです。
2000年代になると、インターネット網を利用したらしい格安テレフォンカードが出てきましたね。
いずれもEU統合前のオーストリアでの体験談です。
スポンサードリンク
24さんの言う HISさんが創世紀 とはズバリ秀インターナショナルincですよね?あの頃は2回目の海外でオーダーメイドのツアーを組んだ覚えがありす。あとタブロイド版夕刊紙の3行広告にバンコク6.3万TTC 本津さんとかマニラFix15日PR年末残席ありとか広告があって電話BOXでかけまくる時代もありました。ホールセーラーさんのバラ売りでしょうか?どんな繁忙期でも待てば必ず席がでる愛想の悪い強気のSさんお元気でしょうか?全てB747のおかげです。
abロードと言えば渡航も回数が重なるとツアー広告は参考程度で成田民間駐車場割引き目当てで購入していました。
私は老兵ですが、w 20才の頃羽田空港で働いていました。中学の同級生・高校の同級生が米国へPan Americanで
行くのをタラップの下まで行って、寂しく見送りました。25才のころ、$割当の申請書を出して $500 持って米国
&メキシコ、2週間の旅行に出かけました。クレカのない時代は紙幣(主として米ドル)が嵩張り、持ち歩きに
不便でした。現在80歳、人生の半分以上は外国生活、今でも年間半分は海外です、特に年末年始の寒い時はね。
パックツアーが主流、自由旅行の先駆けHISがない頃、パスポートの申請に行きました。
口座に25万円以上の残高がないと発行してもらえませんでした。
旅行会社がパスポート申請するのが、当たり前の時代でした。
一般に海外旅行が解禁になった数年後一人旅でメキシコのマヤ遺跡に行きましたが、其のころ安い航空券はジャパンタイムズなどの英字新聞に3行広告欄でチケット代LAoo万円と連絡先の電話番号が書かれていて購入、代金は前金、渡しは出発日の羽田空港XXカウンター前でOO時など今では考えられないおおらかさ、便名と出発時間だけは先に教えてもらっていましたが・・・・・・。LAでは今は無いウェスタンエアラインのメキシコエクスカーションチケットを購入して一か月後無事帰国、行きはノースウエスト、帰りは大韓航空(その頃はLA―ホノルル―羽田―ソウルという航路が有りました)LAからホノルルまではガラガラでエコノミー(ジャンボで10人いたかどうか?)の一番前の席を指定され、ファーストのCA(その頃はスチュワーデスさん)がついでにフォローしてくれました、今はもう時効でしょうがCAさんが私の傍でずっと食事のサービスしてくれたのが思い出です。
航空券といい帰りのCAさんといい良くも悪くものどかな飛行機の旅でした。
スポンサードリンク
バブル崩壊の少し前から海外へ行くようになりました。
昔は今とちがって大らかな、言い換えるならゴネれば得する時代でした。雑誌や先輩からの話を聞いて歌技という名のうまいゴネ方をきいてうまく行けば座席や部屋のアップグレードが受けれて喜んでいた思い出があります。飛行機の荷物の重量超過や乗り遅れや便の変更、偽ブランドや大量の酒タバコを持ち込むときの税関でもうまくゴネればなんとかなったものです。
その後インターネットが普及し皆が情報を得るようになり、近年の手数料商売のLCCが広まるとルールが確立されてきたのかいろいろなことが厳しくなってきました。前払いでキャンセル不可のホテルなんかごく最近の話です。LCCだと座席指定料金がかかることすら最初はおどろいたものですが、最近は機内の場所によって指定料金が変わる様です。統一されたルールができゴネ得ができなくなりました。
若者にとってはそれは普通なんでしょう。最近空港で無駄にゴネて従業員を困られているのは多くが中高年です。昔のようにゴネればなんとかなるとおもっているんでしょう、時代の流れについていけない可愛そうな人たちです。
初めての旅券にはフランスのVISAが貼ってあります。
その数カ月後は無いので一時的な物だったかも。
成田空港迄電車は無く、成田駅から専用バスに乗換、バスの中で旅券とチケット確認がありました。
飛行機の座席には灰皿があり、喫煙可能でした。
卒業旅行のシーズンにどうしてもキャンセルが必要で、泣いてたら近所のお姉さんが秀インターナショナルで働いていたので変更チケット手配してくれました。
キャセイでヨーロッパFIXなのに25万位、余り安く無いなと思いました。
父が初めて海外行ったのはその15年前。
羽田からタラップに乗る写真があります。
お土産は偽物バービーでした。
20年前、BKKから欧州方面の航空会社の価格競争力、バリエーションは最強でした。
日本から取りあえずBKKに出ればそこから先はウズベキスタン航空・バルカンブルガリア航空・マレーヴハンガリー航空など格安でビジネスクラスに乗れるし一国を代表するフラッグキャリアなのでLCCのように世知辛くもなく満足でした。
今はBKK発券のメリットも少なくなり就航キャリアも撤退減便の嵐で、詳細は書けませんが東アジアで第二の穴場を見つけ片道航空券の細切れ区間で一つの旅行を作り上げる手法に切り替えました。
ネットが普及する前までは旅行に詳しい人にいろんな事を教えてもらって航空券の手配とかも任せていた。最近はみんなネットで調べてネットでやる。
スポンサードリンク
その雑誌とは、”エイビーロード”という電話帳みたいな雑誌です。たくさんの旅行会社のツアー情報や格安航空券を販売する会社が掲載されていました。十年以上前に廃刊になりました。インターネットなんてない時代ですからね。今45歳以上の人は、エイビーロードのお世話になった方たくさんいるはずです。
1989年夏、大学生の時に、大学近くの旅行代理店で購入した大韓航空のソウル発成田経由の便でロスに飛び、初めての海外旅行で1ヶ月間オンボロのスーツケースで米国をノープランで周遊しました。地球の歩き方がバイブルでした。若くて体力も度胸もあったから、ネットもスマホもない時代でしたが、何とかトラブルなく帰ってこれました。
現地在住の日本人の女性と接する機会が何度かあり、疲れてある程度ホテルや航空券の予約をした方がいいと思って訪れた、シカゴの日本人の若い女性達が経営する旅行代理店で、非常に親切にしていただいたことをよく覚えています。マイアミのバスステーションでも現地在住の日本人の女性にいろいろなアドバイスをしてもらいました(当時のマイアミは全米有数の危険な街)。ネットがないからこその体験でした。
あの旅行での経験は、その後の海外渡航の自信になりました。
1994年に9万円台でキャセイ航空で香港とローマを周遊できるツアーの折り込み広告を見て電話して初めてのパスポート作って行ったのが初めての海外。周囲から、9万円でイタリアなんてだまされてるんじゃ?なとど言われたけど団体旅行を安くできる仕組みを知れば全然怖くない。海外旅行の費用や現地情報の収集の大変さはその時と大して変わってない。
それより前の80年代はヨーロッパやアメリカを旅行すれば「国際的視野に立った物の考え方」という講演が出来たり、町の広報に旅行記を載せられたりした。
90年代後半、まだ個人用モニタは無かった頃、長距離便では隣の乗客とのおしゃべりで時間を潰すのが常識でした。今でも名刺ファイルに当時隣席に座った人達の名刺が残っています。2000年一桁代になると、機内インターネットが登場しました。当時は利用者がほとんど無く、どのサイトも軽かったので、今よりずっと快適な接続環境でした。10時間近くずっと、家族とスカイプしたり。
1972年に単身赴任の父に会いに、家族でシンガポールへ行きました。
事前に予防接種を2回しました。
そして香港、クアラルンプールと乗り継いだことを記憶しています。
スポンサードリンク
1977年にまだ成田空港が無く、羽田から今は誰も乗らないパキスタン航空で北京経由でロンドンまで行きました。1年オープンで往復
24万円でした。大卒者の初任給が4万円でした。北京空港は2、3機だけ止まっている小さな二階建の田舎の駅のような空港でした。今の巨大な空港を使う時には今昔の感があります。地球の歩き方もまだ発行されず、行き交う旅人同士の情報だけが頼りでした。旅人の交流は密接でした。1年でアフリカ、中東、インドと陸路と飛行機を乗り継ぎました。バルセロナのサクラダファミリアも自分以外の人は誰もいない頃でした。ピラミッドに登ったり今では出来ないことが沢山やれたいい旅行でした。今も毎年2週間くらいの一人旅を楽しんでいますが、スマホで2時間もあれば飛行機からホテル、鉄道、バスの予約が出来るようになるとは思いもしませんでした。楽だけど昔の行き当たりバッタリでの旅行が懐かしくなります。
1989から90年代にかけて旅してました。
ホテルを予約するには、手紙かファクスか、国際電話か。学生だったので、現地に着いてからホテルを数件まわって部屋まで見せてもらってから比較して決めました。
情報が少ないので旅先で出会った旅人どうし情報交換したり、現地の人を頼ったり。カメラはフィルムで、ここぞと思うスポットでは近くにいる人に声かけてシャッターを押してもらう。ひとり旅だから、なんにせよ話さないでは旅できないわけで、今では現地で誰とも話さずに旅できるから、そこが随分違うかな。
1975年頃。まだ海外旅行が一般的でなかった。日本を出国する保証で銀行預金残高100万円のコピーが必要でした。航空券は、国際学生協会のチャーター便のチケットを手に入れました。基本フランスを起点にしているので、日本一フランス往復。フランス一ニューヨーク往復。アメリカ内は、アメリカ1周で途中3~4箇所経由の割引チケット。
日本からフランスは、安い南周り。20時間以上かかり、アジアによりながら行きます。但し飛行機から降りれません。北回りは、ソ連上空を飛べない為、アンカレッジ経由で値段も高かった。
海外で見かけるのは、ビジネスマンかバックパックの若者だけ。観光の人は、ほとんどいませんでした。ホテルは、YMCAを使いました。
ガイドブックは、地球の歩き方のアメリカ版が出版されていました。ほとんど文字で、ひたすら情報が載っていました。
90年代の海外旅行は確かに「ABロード」や「ブランカ(だったっけ?)みたいな雑誌を買って、「夏なのにサムイ島コース」なんて書かれた広告を見て、旅行会社に行って直接チケットを買いました。
そしてガイドブックの存在価値は大きかったですね。EUなんかはユーロに統一されていなかったので、電車で移動したらまず両替と。クレジットカードは使えましたが。
ただ、日本の経済状況が良かったので、アジアでは豪遊OR切り詰めて超安く楽しめました。
また、電気製品などは日本製が大半で、誇らしい感じがしたし、観光地では日本語の案内なんかもあってうれしく思いました。
最近は中国語は当然あるのに対し、時には韓国語があっても日本語の案内はなかったりして、衰えたもんだな、と思います。
インターネットがない、プラザ合意以前の時代に大学生だったおばさんです。
高校生の時、父がロンドン出張に行ったとき、ちょうど国際線の移行時期で、行きが羽田から飛行機になり、帰国が成田でした。反対運動が激しく空港の出入りが江戸時代の関所のようだと申してお降りました。(もちろん父も江戸時代の関所は経験してませんが)
海外旅行といえば、せいぜい新婚旅行に行くくらいで、JALの鶴丸のロゴの入ったショルダーバッグをたすき掛けにしてパック旅行で出かけていた時代でした。
学生ははAmerica 10 $ per day とかいう名前のガイドブックを頼りにグレイハウンドバスを乗り継いでのバックパック旅行(当時はカニ族と呼ばれていた)でした。地球の歩き方が出版されて1年くらいで、緑色のざらざらの紙の2色刷りで、バス16番と書いてあっても実際は61番だったり、信ぴょう性が低かったので、地球の迷い方と呼ばれていました。
卒業後、会社の入社が9月だったのでワーキングホリデー黎明期にオーストラリアに行きましたが、格安航空券でもパース往復で30万でした。キャセイの香港乗り継ぎで、今のHIS、当時は秀インターナショナルという名前の胡散臭い旅行会社で購入しました。
パースに到着した翌日から、公衆電話のボックスで電話帳にあるレストランに片っ端から電話をして仕事を見つけました。当時オーストラリアドルが240円だったので、すごく割のいいバイトでした。午前中は語学学校に行きましたが、それも直接学校に行って、受付で校長に入学したいと話し、そのまま既に授業が始まっているクラスに入りました。小さな商業ビルの一角で運営していたその学校も、規模が大きくなり、お子さんが校長先生に代替わりしました。
新婚旅行はスペインでしたが、世界ホテル名鑑という図鑑のように分厚いホテル紹介の本からホテルを選んで、国際返信用切手を貼ってホテルにエアメールで宿泊したい旨を伝え、ホテルから宿泊できる旨の返信をもってホテルにチェックインしました。
ガイドブック、トーマスクックの時刻表、行先の国の言葉の辞書と荷物は重く、何をするにも事前から十分な準備が必要でした。
スポンサードリンク
昔、繁忙期のJALで、ヨーロッパへの格安チケットの価格で、今では時期によりANAのビジネスに乗ることが出来るので、シーズンが冬のオーケストラの演奏会巡りが目的の自分には本当にいい時代になりました。